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Channel: 続・よねちゃんの車中泊旅行記
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第22回大旅行その182(新潟県新潟市30)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  今いるのは集古館です。旧伊藤家のお宝が展示されています。
 
  インドの古い資料の展示になりました(写真①)。エジプトに比べると古代インドというといささか馴染みがないかもしれません。
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  詳しく紹介しましょう。これは「グプタ 仏塔彫刻」です(写真②)。グプタというのは4世紀から6世紀にかけて現在のインドの北半分を領地としていた王朝です。世界史でチャンドラグプタ王という名を覚えませんでしたか。
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  これは名札がなかったので詳細不明です(写真③)。
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  これも名札がありませんが、象に乗っています(写真④)。
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  これは木彫りの婦人像です(写真⑤)。持っているのは弦楽器のように見えるのですが違う
かもしれません。
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  ガンダーラ美術の解説になりました(写真⑥)。ガンダーラの王国は紀元前6世紀から11世紀まで存続した国であのアレクサンドロス大王も攻め込んだ国です。
  インドではなく現在のパキスタン一体に領地がありました。仏教が盛んな国でしたがギリシャの影響も強く受けています。初めて仏像ができた国でもあります。
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  そのガンダーラの石彫女身像です(写真⑦⑧)。
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  次はペルシャ古資料です(写真⑨)。ペルシャは現在のイランですが、世界史ではアケメネス朝、ササン朝、チムール朝などと覚えたでしょう。ササン朝まではゾロアスター教、次のアッバース朝からはイスラム教が支配したため、文化も変わっています。
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  これは「緑釉 銀火鉢」という名が付いているペルシャ陶です(写真⑩)
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  同じペルシャ陶で「銀火 投下台」という名札が付いていました。どう考えても「灯火台」だと思うのですが(写真⑪)。
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  これもペルシャ陶で「緑釉 灯火壺」です(写真⑫)。灯火台などに油を差す容器でしょうか、左側で火を点す道具でしょうか。
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  これもペルシャ陶で「緑釉 銀火深鉢」です(写真⑬)。
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  こういう解説がありました。アッバース朝は751年に成立、1517年に滅びました。イスラムの国でした(写真⑭)。
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  アッバース朝ではタイル装飾が始まりました(写真⑮)。
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  これがそのタイル装飾です(写真⑯~⑱)。
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  イスラムの古陶はこれで終わりです。次に行きましょう
 
  続く
 

第22回大旅行その183(新潟県新潟市31)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  今いるのは集古館です。旧伊藤家のお宝が展示されています。
  スペイン16世紀の華瓶です(写真①)。
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  詳細不明ですが、スペイン製の金孔雀文大皿です(写真②)。中央の黒いS字状のものが孔雀の体です。
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  さて、次は古代ギリシャです。、まずはコリントス式壺です。よく知られるようにギリシャの建築様式はドーリア式、コリント式、イオニア式に分類されますが、その内のコリント式ということでしょうか。コリントスという都市国家で作られた様式かもしれません(写真③)。
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  余り見かけない形をしていますが用途は何だったでしょう(写真④)。
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  これはレキュトス式壺です(写真⑤)。
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  これは何でしょう、花瓶のような水差しのような・・・、胴部に何かの仕事をしている女性が描かれています(写真⑥)。
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  ギリシャの陶器の解説です(写真⑦)。
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  スキフォス型杯です(写真⑧)。スキポスとも表記され、見ての通り、取っ手が2個付いたワイン用の酒杯です。
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  これもスキフォス型杯と思われますが、取っ手は付いていません。詳細は不明です(写真⑨)。図柄はいかにもギリシャという感じがします。
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  さて、朝鮮の高麗、李朝の頃の瓶や壺の展示になりました。まずは、高麗青磁の解説です(写真⑩)。
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  朝鮮白磁の解説も紹介しておきましょう(写真⑪)。李朝時代は倹約と質実を尊ぶ儒教理念を土台としたとあります。朝鮮半島の現状を見ればそうも思えないのですが。
  ちなみに日本では江戸時代まで磁器は作れず、すべて輸入に頼っていました。当然のことながら非常に高価だったでしょう。
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  では実物を紹介しましょう。高麗時代の青磁象嵌柳葉文瓶子です(写真⑫)。今どきの感覚だと花瓶のように見えますが、瓶子は酒器で銚子の前身に当たります。平家物語の鹿ヶ谷の陰謀のところで登場するのでご存じの方も多いでしょう。
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  これも高麗時代の「彫三島 魚草文瓶」です(写真⑬)。彫三島を説明するのは難しいです。興味のある人はインターネットで調べてください。そうそう、象嵌(ぞうがん)もです。
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  李朝時代の「鉄絵  瓶」です(写真⑭)。鉄絵というのは見ての通り酸化鉄を使って鉄色の絵が描かれているもののことです。瓶(びん)というのも他の容器と境界の難しい言葉です。
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  時代不明の「刷毛目 壺」です(写真⑮)。写真⑭の瓶との違い分かりますか。壺、甕(かめ)、鉢、瓶ははっきり区別できない場合があるかもしれません。
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  これは李朝時代の瓶(写真⑯)です。美しい青です。
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  続く
 

第22回大旅行その184(新潟県新潟市32)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  今いるのは集古館です。旧伊藤家のお宝が展示されています。
  朝鮮の高麗、李朝の頃の瓶や壺の展示の続きです。これは高麗時代の「青磁象嵌菊花文水注ぎ」です(写真①)。
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  これは李朝時代の「飴釉大壺」です(写真②)。
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  李朝時代の「白磁大壺」です(写真③)。
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  さて、こういう展示になりました。可能な限り紹介しましょう(写真④)。
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  これは「古銅 吊り灯籠」です(写真⑤)。中央に葵紋が入っていますが、由来は不明です。
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  「太子堂焼き 大土瓶」です(写真⑥)。太子堂焼きというのは詳細不明です。
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  これも「太子堂焼き 口付き大徳利」です(写真⑦)。口付きのものを徳利と呼ぶかどうかはいささか微妙です。銚子かもしれません。
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  書です。「青松白鶴」と書かれており、作者は村田香谷、1912年に没しています(写真⑧)。
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  あの歌川広重が描いた「金沢八勝夜景」です(写真⑨)。広重が1834年頃に描いた金沢八景はよく知られていますが、金沢八勝夜景は1857年に描かれた別物です。
  よく見ると大判版画絵で、大判三枚綴りの大作です。それまで広重が描いてきたものとは少し趣が違うような気がします。
  ちなみに広重は1858年に死去しています。死因はコレラで、日本では3回目の大流行のときでした。北斎ではありませんがあと5年ほど広重が生きていたらどんな絵が見られたかと思うと惜しいという気がします。
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  「葵紋散らし黒地橘蒔絵料紙硯箱一具」です(写真⑩⑪⑫)。美しい限りです。
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  この後は書が続きますが、どうも、書は難しくて写真を撮るのを省略したようです。悪しからず。
  次は仏像の話です(写真⑬)。解説によると初期の仏教では仏像はありませんでした。紀元1世紀頃にガンダーラ地方でギリシャの影響を受けた仏像ができ、5世紀には完成したようです。それはすぐに日本に伝えられました。
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  最初に紹介するのは仏像ではなく、5000年前の古代エジプトの王族胸像です(写真⑭)。
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  これは3000年前のアッシリアの王族胸像です(写真⑮)。こういう胸像は日本でも各地にありますね。色々な分野で功績のあった人を顕彰するときによく作られます。
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  次回で古い仏像を紹介します。
 
  続く

第22回大旅行その185(新潟県新潟市33)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  今いるのは集古館です。旧伊藤家のお宝が展示されています。
 
  仏像の展示です。仏像は紀元1世紀頃にガンダーラ地方で初めて作られ、6世紀には日本のも紹介されたことは前回紹介しました。
  これは唐代の石仏で観音座像です(写真①)。観音様は立っていることが多く、座っているのは珍しいと思います。
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  中国北魏時代(5世紀)の石仏です(写真②)。
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  中国北斉(6世紀)の仏頭です(写真③)。ギリシャの影響は少し薄らいだという感じでしょうか。
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  ガンダーラで初めて造られた仏像を引き継いで完成させたのはインドの グプタ朝で5世紀頃と言われます。これがその頃のグプタの仏像です(写真④)。確かに現在見ることのできる仏像とそっくりという感じがします。
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  もっと古いガンダーラの仏像で、2~3世紀のものとされます(写真⑤)。
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  インドのクシャーナ朝で2世紀に造られた仏頭です(写真⑥)。まだギリシャ的という感じでしょうか。
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  さて、時代は飛んで室町時代の木彫地蔵尊立像です(写真⑦)。
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  藤原時代の大日如来像です(写真⑧)。ご承知のように藤原時代は文化史の区分で、平安時代の内894年以降の3世紀を指します。藤原氏が台頭し、いわゆる国風文化が進展した時代です。
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  大日如来の解説があったので紹介しておきましょう(写真⑨⑩)。
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  鎌倉時代の木彫弥陀三尊立像です(写真⑪)。一種の置物という感じです。
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  これは古いです。奈良時代の須恵器耳付き壺です(写真⑫)。
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  鎌倉時代の「古瀬戸印花 花入れ」です(写真⑬)。ちょっと見には西洋風という感じもします。古瀬戸というのは鎌倉・室町時代に瀬戸で焼かれたもので釉薬や文様の付け方に特徴があるそうです。これを見て分かりますか。
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  再び広重です。「木曽路の内山川 雪景」という名札が付いていました。これも1847年に作られた3枚続きの大判錦絵です(写真⑭)。1837年に描かれた木曽海道六拾九次とは異なる絵です。10年の内に画風が全く違うものになっていることに驚きます。
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  浮世絵もありました。いくつか紹介しておきましょう(写真⑮⑯)。
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  続く
 

第22回大旅行その186(新潟県新潟市34)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  今いるのは集古館です。旧伊藤家のお宝が展示されています。最後になりました。
  これは江戸時代の黒地龍紋様蒔絵鐙(あぶみ)です(写真①)。
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  螺鈿(らでん)の解説がありました。螺鈿は象嵌、蒔絵、切金などとならぶ伝統工芸の技法です。原料は貝殻の内側、妖しく光るのが魅力です(写真②)。
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  これが江戸時代の螺鈿龍紋様鞍です(写真③)。
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  高蒔絵という技法もあります。これは江戸時代の牡丹紋様高蒔絵鞍・鐙です(写真④)。
  高蒔絵といっても金粉だけで高く盛り上げたわけではありません。漆下地の紋様の部分に砥粉などを使って盛り上げ、その上に蒔絵細工をしたものです。
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  鞍の解説もあったので紹介しておきましょう。元々は武具ですが、平安時代には手の込んだものが作られ、現在残っているものは工芸品としての価値が高いものが多いようです(写真⑤)。
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  さて、1020時になりました。これで集古館の見学は終わりです。立派なお宝をたくさん見せていただいてありがとうございました。
 
 
   外に出ました。現在いるのは北方文化博物館の北西の端と思われます。これは主屋の威容です(写真⑥)。
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  これは集古館のすぐ近くにある中門です(写真⑦)。1020時を過ぎていますから人も増えてきました。
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  少し移動するとこういうところに来ました。左側の建物、何だか変だと思いませんか。妙に薄いという感じがします(写真⑧)。
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  この図を先に紹介しておきましょう(写真⑨)。本当に三角形の建物でした。三角の建物、部屋も三角形と菱形、畳も同じです。酔狂というか風流というか、こういうものは大抵茶室と決まっています。三楽亭といい、茶室兼書斎でした。
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  この位置から見ると三角形の建物だと分かります。不整形の土地に建物を建てるときに四角でない家を建てることもありますが、これだけ広い敷地の中で正三角形の建物を見ることはまず無いでしょう(写真⑩)。
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  三楽亭の周囲はこうなっています(写真⑪⑫)。
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  中に入りました(写真⑬⑭)。
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  三楽亭の解説です(写真⑮)。伊藤家6代目が建てたもので、三角と菱形で作られた茶室兼書斎です。作った本人は気に入っていたでしょうが、四隅は直角で当たり前の人には歪んだ空間に入ったような錯覚に襲われ、圧迫感や恐怖感を感じる空間です。心も落ち着かずできれば早く逃げ出したような感覚にもなります。
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  三楽の解説もありました(写真⑯)。三楽だから三角というしゃれだったかもしれません。
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  しかし、何とも落ち着かない部屋です。早々に退散することにしました(写真⑰)。
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  さて、1025時になりました。これで北方文化博物館の見学は終わりです。とても見ごたえのある博物館でした。
  すぐに出発、県道247号線、県道17号線、国道460号線、県道34号線と走り、磐越道新津ICの西南西約600メートルのところにある新津鉄道資料館を目指します。北方文化博物館からは南西に2.5キロとすぐ近くです。
 
  続く
 

第22回大旅行その187(新潟県新潟市35)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  さて、1025時になりました。北方文化博物館の見学が終わり出発、県道247号線、県道17号線、国道460号線、県道34号線と走り、磐越道新津ICの西南西約600メートルのところにある新津鉄道資料館を目指します。北方文化博物館からは南西に約2.5キロです。
 
  先に新津を紹介しておきましょう。新津は交通の要衝で、信越本線、磐越西線、羽越本線がの井入れるターミナル駅です。トワイライトエクスプレスは寝台特急日本海に乗った人はに乗った人はご存じでしょうが、新潟駅には行かずこの新津駅が停車駅だったのです。2005年に新潟市に編入されています。
 
  1043時着(写真①)。
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  早速こういう展示がありました(写真②)。
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  鉄道資料館の解説がありました(写真③)。新津が鉄道の町だったことが分かります。
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  まずは屋外展示から紹介しましょう。これは200系新幹線です。1982年に開業した東北新幹線で走ったものです。団子鼻は0系そっくりですが、寒冷地仕様で先頭に雪かきが着いています(写真④⑤)。
  しかし、つぶらな目がかわいいですね。そう言えば昨今は自動車もみんな細くてつり上がったヘッドライトばかり、怒っているようでよくないです。リニア新幹線に至ってはアリクイみたいです。
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  C57・19号機の勇姿です(写真⑥)。
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  では中に入りましょう。玄関に大時計がありました(写真⑦⑧)。
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  鉄道ジオラマがありました(写真⑨⑩ )。
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  当ブログは鉄ちゃんではありません。専門知識はありませんで記事が稚拙なのはご容赦の程を。これは湘南型電車と呼ばれた電車です(写真⑪)。
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  大正3年頃の新津駅です(写真⑫)。
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  大正中頃の新津駅構内です(写真⑬)。
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  新津駅の構内入れ替え用の9600型機関車です(写真⑭)。入れ替えも蒸気機関車でやっていたとなると壮観だったでしょう。
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  昭和10年代の新津駅です(写真⑮)。車が4台ほど止まっていますが、この時代は日本の乗用車の黎明期、まだ外車だったかもしれません。
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  昭和12年に新津駅が一等駅になったことを祝う行事の様子です(写真⑯)。
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  一等駅昇格の際の祝賀仮装行列です(写真⑰)。ちなみに一等駅とは利用客が際立って多い駅で、当然のことながらほぼ全ての優等列車も止まる駅でした。
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  火夫養成所もあったようです(写真⑱)。火夫とは蒸気機関のボイラーの火を扱う職員のことです。機関車は機関助手、民間の蒸気船は機関員、軍艦は機関兵といいました。
  機関車の場合、線路の勾配に合わせて石炭を均等に大量に焚き口に投入しないと機関車の動きに影響するし、機関車の中だから揺れるし狭いし熱いしで大変な重労働でした。
  写真から「どんなに困難でもやってやる」という気概を感じることができますか。そういう気概がなかったらすぐに昏倒するような仕事でした。
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  続く

第22回大旅行その188(新潟県新潟市36)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  磐越西線日出谷と鹿ノ瀬間にある平瀬トンネルの両方の出入り口に掲げられている石額です。平瀬トンネルは全長2006メートル、大正3年(1914年)に竣工しています。揮毫はあの有名な鉄道院総裁だった後藤新平です(写真①)。
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  これは平瀬トンネル西口です(写真②)。「貨財殖焉」と書かれています。
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  これは平瀬トンネル東口です(写真③)。「宝蔵興焉」と書かれています。
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  石額の解説もありました(写真③の2、③の3)。
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  左端は昭和62年にJR各社が発足したときの記念杯です。赤いのは戦前のシナ事変従軍記念杯、中央は動輪の文様が入った土瓶、右二つは大正から昭和初め頃に作られた鉄瓶です(写真④)。
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  左から2つめの赤いのは鉄道100年記念品で、北海道を走っていた客車で使われていたストーブを模したものです(写真⑤)。
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  これも記念品ですが、右手のものはレールで作られています(写真⑥)。他にも記念品がありましたが省略します。
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  こういう展示がありました(写真⑦⑧)。鉄ちゃんなら全部ご存じでしょうが、往時の急行列車や特急列車の銘板です。
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  これは行き先表示の銘板です(写真⑨⑩)。
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  往時の橋梁銘板です(写真⑪)。明治から戦前にかけて架けられた橋梁に付けられていたもので、架け替えなどの際に引退したものと思われます。
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  これは車輌製造銘板です(写真⑫⑬)。
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  これも銘板です(写真⑭⑮)。
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  にぎやかな銘板です(写真⑯)。 
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  続く
 

第22回大旅行その189(新潟県新潟市37)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  蒸気機関車の写真の展示です(写真①)。いずれも数字だけの型式表示で、明治から大正にかけて造られたものです。
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  我が国ではたくさんの蒸気機関車が製造されましたが、時代の流れと共に多くは廃車されスクラップになりました。しかし運良く生き残った蒸気機関車もいます。その一つがこれから紹介するC57・180号機です。
  C57・180号機は昭和21年(1946年)に製造され新潟機関区や新津機関区に所属して活躍しました。昭和44年9月廃車、その後、自力で走って新津第一小学校まで行き静態保存されたのです(写真②)。
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  これは現役のころ、冬の磐越西線を行くC57・180号機の勇姿です(写真③)。
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  これは最後の営業運転を終え、新津駅に到着したところだと思われます(写真④)。
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  普通だとこの後は解体という運命が待っているのですが、C57・180号機は幸運でした。新津駅のすぐ南にある新津第一小学校で保存されることになったのです。
  地図を見れば分かりますがこの小学校の敷地は新津駅南の磐越西線に隣接しています。そこで、新津駅の側線から仮設線路を小学校校庭まで敷設する工事を行いました(写真⑤)。
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  1969年10月12日、出発の日です(写真⑥)。新津駅でのお祝いの神事の様子です。
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  これはその際の機関士達です(写真⑦)。
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  仮設線路を走るC57・180号機です(写真⑧⑨)。
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  無事、保存場所に着き、静かに眠ることになりました(写真⑩)。
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  しかし、これで放置されて終わりということではなかったのです。2年後には上屋も建てられ、地元有志や新津第一小学校の生徒達が整備清掃を続け、良好な状態で保存されていました(写真⑪)。
  1990年代になると各地でSLが観光用に復活する気運が高まりました。新津市(現新潟市)でも保存状態が良好だったC57・180号機復活の運動が高まり、1999年に復活しています。
  それから20年近く経ち、今も現役ですが、丈夫な蒸気機関車もさすがかなりのご老体になっているようです。
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  この先、蒸気機関車の写真が展示されています(写真⑪の2、⑫⑬)。たくさんあるので詳細は省略します。
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  往年の電気機関車の写真もあります(写真⑭)。昨今は機関車で牽引する客車で編成する列車が激減しているため、新しい機関車の需要も少なくなりました。
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  往年のディーゼル機関車です(写真⑮)。
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  御当地で活躍した蒸気機関車です(写真⑯)。
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  その写真の中でもこれが圧巻です(写真⑰)。D51の三重連、さすがに貫禄があります。ちなみにD51形の定格出力は1280馬力、単純計算で三基では3840馬力です。
  ディーゼル機関車の代表のDD51形は1両で2200馬力(1100馬力×2基)です。
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  続く
 

第22回大旅行その190(新潟県新潟市38)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  こういう展示になりました(写真①)。中央は新幹線の車輪と車軸、奥は在来線の車輪と車軸です。
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  ゲージというのは鉄道の基本的な概念です。軌間、つまり2本のレールの幅のことです(写真②)。新幹線は世界標準となっています。
  日本に鉄道技術を教えたのは英国です。当時の英国の軌間は1435ミリ(標準軌)、1067ミリ(狭軌)などがありましたが、英国は日本に狭軌を教えたのです。
  これについて、イギリス人は元々ケチな了見しか持っていないのでわざと性能的に劣る狭軌しか教えなかったとする説と、英国と違い山間部の多い日本では線路の回転半径が小さくなるため狭軌の方がいいと考えたとする説があります。
  明治の中頃にこれに気づいた日本はレールを引き直そうという意見も出ましたが当時はロシアや中国と厳しい国際関係にあり、莫大な軍事費の確保を余儀なくされたため見送られ現在に至っています。ロシアと中国は今でも悪しき隣人ですが往時も同じだったのです。
  後発の私鉄は標準軌が多いのですが、元々は国鉄と併走する区間で路面電車の規格で認可されたようです。
  ちなみに近鉄の歴史を読めば、戦後になって狭軌を標準軌にやり替えた神業の経緯が分かります。
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  これは新幹線の車輪と車軸です(写真③)。見ての通り幅が広いので高速安定性は増しますが、車輪と車軸が直結されているため急カーブは意外に弱いという難点があります。
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  これは在来特急の車輪と車軸です(写真④)。
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  これは日本で最初に使われたレールです(写真⑤)。レールの上と下が同じ形になっているのが分かるでしょうか。双頭レールといいます。
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  日本で最初の鉄道レールの解説です(写真⑥)。リバーシブルレール、なるほど、よく分かります。
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  線路の断面です(写真⑦⑧)。
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  レールにこういう種類があるのをご存じでしたか(写真⑨)。解説文はかなり専門的です。
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  写真⑨の解説に出ていたレールの現物も展示されていました(写真⑩)。素人でも解説と見比べながらよく見ると違いが分かると思います。
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  そのレールの標本です(写真⑩の2)。
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  これは信越本線の碓氷峠で明治24年に線路を敷設したとき、日本で初めて使われた軌条のようです(写真⑪)。
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  これはアプト式の軌条です(写真⑫)。
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  アプト式軌条の解説です(写真⑬)。
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  奥にあったC57・1号機の模型です(写真⑭)。なぜ、ここにC57・1号機が展示されているか、話せば長い話になります。1937年の製造(業界では落成といいます)で長く新津機関区に所属し、一旦廃車になりますが後にSL山口号として復活しています。詳しくはインターネット情報を参照してください。
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  外国製レールです(写真⑮⑯)。まだ、国産の鉄が十分供給できなかった頃の話です。
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  車輪です。左は一体型、右はスポーク型です(写真⑰)。一体型は昭和27年頃から普及したようです。
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  続く
 

第22回大旅行その191(新潟県新潟市39)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  電車に乗って先頭車両の窓から前を見ているとこういうところを通過するのを見たことがあるでしょう(写真①②)。ダイヤモンド・クロッシングというそうです。これた新津駅構内のもので特殊な設計になっているそうです。
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  鉄道の基本知識の解説がありました。まずは軌間です(写真③④)。日本は1067ミリが主流で、1435ミリは新幹線や私鉄が使っています。
  明治の頃、最初に英国から教わった軌間が狭軌の1067ミリで国鉄がこれで敷設し、後発の私鉄は国鉄と併走することが多かったので狭軌では鉄道院の事業認可が下りず、内務省の所管だった路面電車の規格である標準軌で敷設したという経緯があるようです。
  これに関してはインターネットに色々な情報がありますから調べると楽しいでしょう。
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  カーブでは遠心力が働きます。また、鉄道車両の車輪は車軸で固定されているため内側の車輪と外側の車輪に回転差が生じます。これらは脱線の原因になるためそれを解消する技術があります。その解説です。
  まずはフランジです(写真⑤)。フランジとは車輪の内側にある出っ張りです。これ自体が脱線を防ぎます。
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  内側と外側の車輪の回転差はこの図のようにして解消しています。車輪は車のように平らではなく、フランジから外向きに斜めになっています。
  両輪とも矢印の部分で線路に接するため、カーブの際に外側車輪は内側よりも直径が大きくなります。これで回転差を無くしているのです(写真⑥)。
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  次はカントです(写真⑦)。これは道路と同じで車体が内側に傾くようにレールの高さを調節しています。
  これに加えて車体側でも傾斜を加えているのが車体傾斜式車両でその代表が振り子式です。日本でもスピードアップを図るため1970年代から導入され、当ブログのふるさとの紀勢線でも走っていましたが乗り心地はいささか不評でした。
  昨今は高い経費を掛けて無理に速く走らなくてもいいとか、カーブで減速してもその後のエンジンの加速性能が向上したことなどもあって、紀勢線などでも振り子電車は引退が続いているようです。
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  最後にスラックです(写真⑧)。少し分かりにくい図解ですが、要するにカーブのところでは線路の巾を標準よりも広く取っているということです。これでカーブを曲がるときに車輪から出るあのきしむような金属音を押さえることができます。
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  連結器、制動機の展示になりました(写真⑨)。内容は一般向けの資料館としてはかなり専門的で、当ブログでも紹介できるような低レベルではありません。大まかなところだけ紹介しておきます。
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  これは機関車の制動装置です(写真⑩)。
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  貨車用のブレーキです(写真⑪)。
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  動力がディーゼルエンジンである場合はクラッチと変速機がどうしても必要です。大出力のエンジンの力を制御するのは容易ではなかったようです(写真⑫)。
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  液体変速機が展示されていました。これはクラッチ室です(写真⑬)。
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  これが液体変速機です(写真⑭)。
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  液体変速機の内部ですがかなりの予備知識が無いとみても分かりません(写真⑮⑯)。
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  続く
 

第22回大旅行その192(新潟県新潟市40)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  気動車用のディーゼルエンジンが展示されていました。まずは解説です(写真①)。型番はDMH17Hであることが分かります。
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  代表的な気動車は客車の床下にディーゼルエンジンを積んでいます。これが現物です。旧国鉄で使われた標準的なエンジンです。型式名からわかるように8気筒で排気量は約17リットルでした。しかし、出力はたったの180馬力、1基では坂を上れないほど非力だったようです(写真②)。
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  基本的に客車の床下に置くエンジンですから直列水平で全体に平べったい格好をしています(写真③④)。
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  これはDF115形液体変速機です(写真⑤)。ニイガタというのは新潟コンバーター(現・日立ニコトランスミッション)という会社のことです。1955年に旧国鉄に制式採用されています(正式とは書きません。念のため)。
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  183系特急直流電車のブレーキ系統のパネルです(写真⑥)。正直なところこんなに複雑だったのかとびっくりしました。
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  この解説を読んでも専門用語が並んでいるだけで特急電車のブレーキがどんなものかよく分かりません(写真⑦)。
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  これがブレーキです(写真⑧)。それにしてもなぜ鉄道車両はこんな使いにくいハンドルを使っているのでしょう。自動車のようなペダル式の方が余程使いやすいと思うのですが。根本的には鉄道は長大な列車編成を前提として多様なブレーキシステムを搭載していることに由来するようです。
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  左はブレーキ弁、右はブレーキ装置に使う圧縮空気を作る圧縮機です(写真⑨)。
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  複数車両編成を前提とする鉄道での必需品は連結器です(写真⑩)。
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  こういうナックル式のものはよく見かけました(写真⑪)。連結器も比較的早い時期に現在に至る完成形の形状になったようです。長大な客車を先頭の機関車で引っ張る時代が終わり、動力分散式が当たり前になると繋がっていればいいという程度で済むようになったというところでしょうか。
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  これは電車の運転席ですが型式は不明です(写真⑫)。
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  この先はいろいろな電装設備の展示が続きますが省略します。
 
  お召し列車の話になりました。御当地、新津でお召し列車を整備したのは昭和3年、新津機関区の蒸気機関車で最後にお召し列車が新津を通ったのは昭和47年でした(写真⑬)。
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  これは昭和47年5月24日に新津ー村上間で最後のお召し列車の先頭車となったC57・1号機です(写真⑭)その後、。多くの機関車が廃車解体される中でこの機関車は幸運に恵まれました。動態保存の一時期を経て1979年にSL山口号として復活を果たしたのです。
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  C57・14号機もお召し列車を引いたようですが年代は不明です(写真⑮)。
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  これは昭和39年の新潟国体の際にお召し列車となったC57・172号機です(写真⑯)。
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  お召し列車の話は続きます。
 
  続く
 

第22回大旅行その193(新潟県新潟市41)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  お召し列車の話の続きです。これはC51・186号機です(写真①②)。昭和3年に新津で初めてお召し列車牽引機として整備したものでした。予備機だったのか、実際に牽引したかどうかは不明です。
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  この写真、お召し列車は東京からはこのEF58・61号機が牽引したとなっています。鉄ちゃんならご存じでしょうが、このEF58・61号機はお召し列車牽引機として有名で1953年に製造されています。
  このEF58・61号機も幸運の機関車で2008年に引退、現在も東京の田端運転所に在籍し年に1回ほど公開されるようです(写真③)。
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  お召し機の予備機だったDD51・27号機です(写真④)。1965年頃製造されたディーゼル機関車です。もう現存はしないようです。
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  お召し機関車と御料車についてこういう展示がありました。詳しく紹介しましょう(写真⑤)。
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  お召し用6号御料車で、明治43年製、明治天皇と大正天皇が使われました(写真⑥)。
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  その6号御料車の内部です(写真⑦)。ヨーロッパの王室や貴族も鉄道を使っていた時代、日本国の天皇陛下が乗る御料車も国威を示す必要があります。国の格式を世界中に知らせる必要があるのは今も同じです。
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  年代不明ですがかなり古い御料車のようです(写真⑧)。
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  10号御料車です(写真⑨)。
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  12号御料車です(写真⑩)。大正13年製です。大正天皇は病気がちだったので1921年(大正10年)から昭和天皇が摂政になっていました。
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  その12号御料車の内部です(写真⑪)。
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  これは9号御料車の内部です(写真⑫)。天井が折上げ格天井になっています。
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  年代不明ですが、御料車の供奉員室です(写真⑬)。同行する宮内省の職員が乗ったものです。
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  これは昭和35年に製造された御料車新1号です(写真⑭)。平成になってからは今上陛下が専用列車を走らせて国民生活に影響が出るのを配慮されて、一般電車の一部、政府専用機、民間機の一部などをお使いになることが多く、お召し列車が走る機会は減っています。
  鉄ちゃんにとっては逆にお召し列車の希少価値が跳ね上がったということになったかもしれません。先頭車に菊の御紋と国旗がありますから一目でそれと分かります。
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  続く
 

第22回大旅行その194(新潟県新潟市42)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  お召し列車の話の続きです。新津とお召し列車との関係が分かる解説です(写真①)。お召し列車で特別な検査をするのは結構ですが、その技術や心意気を普段の運行にも反映させないといけません。今回の新幹線事故でのJR西日本の関係者の無自覚無責任ぶりには本当に驚きました。
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  お召し列車を運転するのは乗務員にとっても名誉な仕事でした。こういう記念が展示されています(写真②③)。
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  昭和3年の陸軍特別大演習の際のお召列車用機関車だったC51・186号機の勇姿です(写真④)。
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  昭和22年のお召列車用機関車のD51・1107機です(写真⑤)。文中に戦時形ということががありますが、多分、先頭両側にある除煙板のことでしょう。この頃、戦争で極度の物資不足に陥り、除煙板が木製だったのです。なお、除煙板は数年後には金属製に換装されたと思います。
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  昭和36年の秋田国体でもお召し列車用に整備されたC57・14号機です(写真⑥)。残念ながら現存しないようです。
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  これが本番でのC57・14号機の勇姿です(写真⑦)。
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  次は昭和39年の新潟国体の際にお召し列車用機関車として整備されたC57・172号機です(写真⑧)。イメージ 8

  時代は進み、昭和47年、現在の新潟県胎内市で開催された植樹祭用に整備されたC57・1号機です(写真⑨)。
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  C57・1号機は今も現役ですが、ここには模型がありました(写真⑩)。C57型は「貴婦人」という愛称をもらっていますが、この写真を見るとそれが分かるでしょうか。
  蒸気機関車と言えば無骨な働き者という印象が強い中で、このC57はボイラー部が細長くて優美に見えることからこの名が付いたようです。
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  こういう標板がありました。たしか、現役のSL山口号の牽引車にも同じ標板が付いていたはずですがどうなっているのでしょう(写真⑪)。こちらの方が作り直した偽物なのでしょうか、それとも現役の方に新しい標板を付け直したのでしょうか。
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  これはお召し列車の機関車であることを表示するエンブレムです(写真⑫)。
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  写真⑤で紹介したD51・1107機の標板です。お召し列車の先頭に立ったこともある栄光の機関車ですが、残念ながら現存しないようです(写真⑬)。 
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  蒸気機関車によく装備された前照灯です(写真⑭)。
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  性能的には昔の遺物となった蒸気機関車ですが、どんな新型電車にも新幹線にも負けないと感じるのが汽笛です。
  文字通り一種の笛で、ボイラーの蒸気で鳴らします。他の列車の金属的な音、自動車の悪意に満ちた攻撃的な音と違い、歌謡曲でも歌われるむせび泣くような切なげな郷愁、旅愁を誘う音が何とも言えない魅力で日本の音の原風景の一つにもなっていると思います。それを出すのがこの装置です(写真⑮)。
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  この先、蒸気機関車の装備品の展示が続きますが、当ブログは鉄ちゃんではありませんので省略します。
 
  続く
 

第22回大旅行その195(新潟県新潟市43)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  れは蒸気機関車で使うショベルです。炭水車と機関車内で使うものは大きさが違います。当たり前ですが(写真①)。
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  これは蒸気機関車のシリンダとピストンの模型です(写真②)。ピストンと動輪は1本のロッドで繋がっているわけではなく、2本あることが分かります。
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  ピストンも内燃機関のような形状ではなく仕切りと言った方がよさそうです、情報の蒸気室にある弁を介してピストンは一往復する間に2回蒸気に押されているのです(写真③)。車のエンジンでいえばワンストロークということになります。この仕掛けがあるので機関車のエンジンは比較的小さく見えても大きな馬力が出るのです。
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  インターネットに載っていた図解を紹介しておきましょう(写真④)。
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  この装置はバックするとき、つまり動輪を逆回転させる装置のようです(写真⑤)。
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  これは軌道自動自転車です(写真⑥⑦)。後方に小さめのエンジンらしきものが付いていて完全な自転車ではないようです。
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  往時の保線車です(写真⑧⑨)。
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  保線用の道具です木の棒の内上2本は水準器、上から3本目は軌道・水平兼用ゲージ、鋸の上の棒は線路幅ゲージです。木こりが使うような二人挽き鋸は枕木でも切ったのでしょうか(写真⑩)。
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  ギムネです(写真⑪)。見ての通り、T字形をした錐(きり)です。
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  保線作業時に使った鐘です(写真⑫)。ある区間の両側から作業をするときに使って現在位置を知らせあいました。何だか半鐘か学校の鐘とそっくりです。
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  新潟鉄道管理局の表彰額です。上に軌条(レール)の断面を意匠化したマークが入っていますから保線分野ということでしょう(写真⑬)。
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  これは旧阿賀野川橋梁に貼り付けられていた記念標板です(写真⑭)。竣工年次と関わった業者の名が彫られています。何だか談合の印という感じを彷彿させるのは業者にとっても不幸なことです。
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  これは保線作業時に使った気象告知板ではないかと思われます(写真⑮)。御当地は豪雪地帯、冬期は特に大変だったことでしょう。
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  保線の話は続きます。
 
  続く

第22回大旅行その196(新潟県新潟市44)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  保線の話の続きです。これは大正初期の線路工夫組頭とその部下達です(写真①)。現在の日本人よりもりりしいという感じを受けませんか。
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  大正時代の線路工夫の正装です(写真②)。法被や腹掛け、ゲートルまきの出で立ちです。きちんと帽子をかぶっているからりりしく感じるのかもしれません。現在はヘルメットをかぶると思いますが、夏の昼間は暑くて大変でしょう。
  両側の工夫が杖を持っていますがこれも道具の内だったのでしょうか。
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  昭和初期の保線作業の様子です(写真③)。
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  羽越線での線路班の様子です。写真用にポーズをとっているのでしょうか(写真④)。年代が分かりません。
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  写真④と同じ格好をしてます。昭和18年、戦況が悪化し、男手が減って女子部隊が編成されました(写真⑤)。
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  軌条(レール)交換をしているところです。更換と書くようです(写真⑥)。
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  軌条積み卸しトロリーです(写真⑦)。一種のクレーン車でしょうか。
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  上越線で雪中巡回をする工夫長です(写真⑧)。戦前の写真でしょうか。写真で見る限りどこに線路があるか分かりません。こういう気象状況の下では運転するのはもちろんですが、保線担当も厳しかったでしょう。今はこういう状況のときにはどうしていたのでしょう。
  そう言えば、この間、ここの近くで16時間近く客を乗せたまま立ち往生した事故がありましたね。後輩達の余りの知恵の無さに工夫長は嘆いているのではないでしょうか。
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  昭和25年頃の写真で新津保線区所属の視察形電動車です(写真⑨)。鉄ちゃんでもないと見かけることはないでしょう。
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  吉池式軌道検測車です(写真⑩)。後方の二人は自転車をこいでいるのではなく前方の車両に牽引されているように見えます。
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  マルタイが登場しました(写真⑪⑫)。「マルチプル・タイ・タンパー」の略です。自力で走行し、軌条のゆがみを見つけると装備しているはさみで軌条を持ちあげ、写真にあるような爪のような装置で突き固めて軌条を正常位置に戻します。現在も進化形が活躍しています。
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  これは人が携行するのタイタンパーでしょうか(写真⑬)。現在でもほぼ同じようなのを軌陸両用パワーショベルの先端に取り付けて作業するようです。
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  軌条運搬車の重連です(写真⑭)。
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  軌道探傷車です(写真⑮)。
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  軌条庚換機なのですが、ほぼ手作業に近いという感じです(写真⑯)。
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  ポイント注油作業です(写真⑰)。御当地は豪雪地帯、冬は注油よりも雪が詰まって切り替えができなくなる方が危なかったかもしれません。
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  保線の話は続きますが専門的な道具ばかりなので省略します。
 
  続く
 

第22回大旅行その197(新潟県新潟市45)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  SL9634のボイラーの蓋です(写真①)。
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  在りし日のSL9634です(写真②)。昭和42年8月28日の水害に巻き込まれ小国駅構内でで立ち往生しています。
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  これは昭和47年の3月13~14日に行われた米坂線さよならSL列車での運転です。9634が先頭に立ち、後方に29668号が連結されています。この後すぐに9634号は解体され、蓋だけが当資料館に残ったと言うわけです(写真③)。
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  展示が変わりました。新幹線の先頭車両です。一番精悍だと感じたのは右列中段の300形です(写真④)。
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  色々な機関車や列車の先頭車両の顔です(写真⑤⑥)。鉄ちゃんなら写真を見ただけで型式が分かるでしょう。
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  明治5年というのは記念すべき日でした。9月12日に新橋横浜噛んで営業運転を始めたのです。その頃の錦絵です。横浜駅を出発した列車と思われます(写真⑦)。
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  同じ頃の新橋駅です(写真⑧)。正装の人が目立ちます。
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  六郷の渡しというのをご存じの人も多いでしょう。徳川家康が1600年に多摩川に六郷大橋を架けました。何度も洪水で流失したので1688年に架橋はやめて渡船に換えたのですが、これが明治まで続いた六郷の渡しです。
  東海道線の延伸が始まっており、明治4年(1871年)、六郷川橋梁が架けられました。初代は木造橋だったようです。この写真の右上に見えるのがその橋と思われます(写真⑨)。
  なお、この橋は木製だったため6年後には腐食し、2代目として1877年に複線化の上、鉄製トラス橋に架け替えています。この2代目のトラス橋の一部が今も愛知県の明治村にあるということのようです。
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  特急富士展望車の様子です(写真⑩)。ここでいう特急富士は1912年から1944年まで運行された特急列車です。1934年までは一等車と二等車しか連結していない高等列車でした。この写真を見てもその雰囲気が伝わってくるでしょう。
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  同じ特急富士ですが昭和4年撮影のものです。最後尾が展望車、今走っている瑞風と同じような造りです(写真⑪)。
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  これは明治45年(1912年)の写真ですから特急富士が新橋下関間で運行を開始した年の当時の最後尾の一等展望車の様子です(写真⑫)。男は帽子をかぶり、女性の髪型もこの時代の標準的なものです。
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  残念ながら先の大戦では日本は一敗地に塗れました。そのどん底の状態だった昭和21年の復員列車の様子です(写真⑬)。復員兵達は貨幣価値の変化にびっくりしたそうです。戦後の超インフレを体感したでしょう。戦地に行かなかった人も戦時国債が紙くず同然になって同じことを体感したでしょう。
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  これも昭和21年の東京駅です。昭和20年5月25日に米軍の空襲を受け、ドームが吹き飛び屋根が焼け落ちているのが分かります(写真⑭)。
  当時の為政者は愚かだったと思います。こんなになるまで戦わなくてもよかったのです。しかし、戦争を始めたのもやめられなかったのもルーズベルトの陰謀だったという説もあります。
  なお、東京駅は2007年から復旧工事を始め、2012年に元の姿を取り戻しています。二度とこういう空襲を受けない強い国になる必要があります。そのためにも憲法改正は絶対に必要です。
  専守防衛は本土決戦と同義だなどと時代遅れのことを言っている一部のメディアや野党の言うことを信じていると東京駅もまた写真のように廃墟になります。今度は皇居も無事ではいられないでしょう。
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  都市部では食料が極度に不足し、買い出し列車と呼ばれた列車も動きました(写真⑮)。
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  昭和25年の特急つばめです(写真⑯)。もう落ち着きを取り戻しています。
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  往時の写真はこれで終わりです。次に行きましょう。
 
  続く
 

第22回大旅行その198(新潟県新潟市46)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  展示が変わりました。車軸発電装置です。まずは解説です(写真①)。
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  これがその発電機です(写真②)。客車などの下に付いていたのを覚えていますか。
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  これはロータリーインバータです。(写真③)。直流を交流に変換して客車の蛍光灯を点灯させました。
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  特急ときの車号銘板です(写真④⑤)。解説がないと意味が分かりません。
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  特急土岐のシンボルマークです(写真⑥)。一番上はJNRを意匠したものです。日本国有鉄道のイニシャルだそうです。これからNを外せば簡単にJRになったわけです。
  「とき」というと上越新幹線の「とき」ですが、これは1962年から1982年まで上越線で走っていた特急ときです。それを新幹線が引き継いだのです。
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  「とき」の車号銘板です。「モハ181-19」、181系といえばあの特急こだまにも使われたボンネット型の車両で最高時速は160キロでした(写真⑦)。
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  最高記録の銘板もありました(写真⑧)。1067ミリの狭軌の最高記録を打ち立てたときのものです。
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  昨今はSL人気で静態保存されたものも現役復帰したりして頑張っています。お金はかかりますが、蒸気機関車の諸技術を継承したり、本物の感触を広く国民に知ってもらうのはいいことです(写真⑨)。
  反面、急行列車だったこともある出羽や鳥海がヘッドマークだけになったことは寂しいという感じです。と言っても当ブログが実際に乗ったわけではありません。
  当ブログが中学生から高校生だった頃、時刻表の上だけで旅行するのがはやりました。今は廃線となったところも往時は健在で、急行や特急の種類も多く、夜行寝台もたくさん走っていたため、現在の時刻表よりもはるかに楽しかったと思います。
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  往時の列車にあった小物です(写真⑩)。
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  左から貨物乗務員用温脚器、客車の達磨スト-ブと石炭箱、右端は飲料水です(写真⑪)。
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  貨車用蓄電池です(写真⑫)。車掌車には当初、照明設備がなかったのです。
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  下は照明具のカバーです(写真⑬)。そのほかのものも見かけたことがあるかもしれません。
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  色々な携帯照明具です(写真⑭)。普通の照明用や合図用、点検用などがあります。
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  一番様変わりしたのはこれかもしれません(写真⑮)。灰皿です。指定席も禁煙車から埋まっていく時代があり、今では煙草を吸えるところを探さないといけないくらいになりました。
  20年くらい前は職場でも喫煙派と禁煙派に別れてけんか腰でやり合わないといけない時代があったのが遠い昔のようです。呼吸器内科の先生でも煙草を吸っていましたから。
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  続く
 

第22回大旅行その199(新潟県新潟市47)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  これは信号炎管点火装置です(写真①)。
  貨物緩急車という名が出てきますが、元々は鉄道発祥の頃、長大な列車のブレーキを連結・統括制御できなかったため、最後尾にブレーキを付けた貨車兼用の車掌車を連結したのが始まりです。
  緩急車でブレーキを動かすと先頭車の乗務員に関係なくにかかわらず列車は停止しました。
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  これがその装置です(写真②)。
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  この機械が何であるか不明です(写真③)。
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  さて、こういう展示になりました(写真④)。地元の人か上級の鉄ちゃんでないと知らない話かもしれません。
  赤谷線は新潟県新発田市にあった路線で、新発田市内の赤谷で産する鉄鉱石を輸送するために1920年頃に敷設されたものです。1984年に全線で廃止されました。米倉駅は全線19キロほどのちょうど中間にありました。
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  これは往時の案内板です(写真⑤)。東赤谷が終着駅でした。
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  いつ頃の時刻表でしょうか(写真⑥)。
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  鉄道唱歌と言えば「汽笛一声新橋を・・・」が有名ですが、明治5年の鉄道創業以来日本中で延伸延伸が続き、各地で曲は有名な鉄道唱歌と同じ、歌詞は地元の文士の蘊蓄(うんちく)を傾けたものが競って作られました。
  御当地でもこういうものが作られました。一目で分かるように今で言う名所旧跡、地元産品の紹介ですが、当時の博学の地方文士の手によるものですから日本語としても内容としても今でも鑑賞に耐えられる仕上がりになっています(写真⑦)。
  歌詞の11番では鉄、金銀、銅、亜鉛、石炭、白土灰、水晶、天然サイダ、丸木材が無尽蔵にある宝庫だったそうです。これだけあれば鉄道を敷く値打ちもあったことでしょう。
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  先ほども紹介した赤谷線の歩みです(写真⑧)。これを見れば分かるように昭和30年代までは拡張、40年代に入って急速に縮小化の政策に変わったことが分かります。
  鉱山の縮小、道路の整備と自動車の普及、山間部の過疎化が影響したものと思われます。
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  東赤谷駅で使われていた台秤です(写真⑨)。
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  往時のものと思われる発券機です(写真⑩)。
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  こういうのは見たことがあるでしょう。構内電気時計、料金箱です(写真⑪)。
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  電話機がありました。大体のものは民需用ですが、ケースの上に乗っているのは指令電話機、矢印は携帯電話機です。
  携帯と言っても今のような携帯ではなく、線路沿線に500メートル間隔で設置されているターミナルボックスの端子につないで現場から電話をかけるというものでした(写真⑫)。
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  次は信号機です(写真⑬)。信号機は鉄道ではなくてはならないものです。まずは解説です。矢羽根のような腕木信号の頃はのどかなものでしたが、運転密度が濃くなるとこれでは持たなくなり、自動化されました。解説です。
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  信号機の情報はレールを通じて行われています(写真⑭)。
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  これが解説にあった3現示です、4現示や5現示もあります。実際には2現示や6現示もあるようです。
  赤は「止まれ」という意味です。赤以外は自動車用の信号と意味が違いすべて「進め」という意味ですが進み方の違いがあり、警戒しながら、注意しながら、減速して、普通にという意味があり、それぞれ何キロ以下という決まりになっています。路線の運転密度に応じて適切な信号機が設置されます(写真⑮⑯)。
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  なぜか信号機のパネルの隣にC62・三号機の勇姿の写真がありました(写真⑰)。この黒い煙が煙害と呼ばれたこともあります。現在のように観光用にたまに田舎を走るくらいなら気にもされないのでしょう。
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  これは3現示式の信号機です(写真⑱)。
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  続く
 

第22回大旅行その200(新潟県新潟市48)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  双信閉塞器の解説がありました(写真①)。寡聞にして初めて聞く言葉です。
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  展示状態からすると、このうちのどれか又は全部が双信閉塞器の機械だと思われます(写真②)。
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  よく見かけるのはこの通票閉塞器です。タブレット閉塞の方が通りがいいでしょうか(写真③)。
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  解説がありました(写真④)。
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  左がタブレット授器、右がタブレット受器です(写真④の2)。
  各駅停車だと駅員が手渡すのですが、特急列車のような通過車両の場合は減速して走行しながら受け器に引っかけたり授け器から受け取りました。
  稀に受け取りに失敗して落とすこともあったようで、原則的には列車を止めて受け取り直したようです。駅にいた客が拾って追いかける様子を動画で見ることができます。
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  これがタブレットです(写真④の3)。
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  写りが悪いですがタブレットの解説です(写真④の4、④の5)。今でも地方線でタブレット閉塞区間があります。普通列車ばかりで、通過列車が受け渡しするところはないかもしれません。
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  踏切警報機です(写真⑤)。自動車に乗っていると鉄道は通行を妨げる邪魔者です。その極めつけがこの警報器です。
  都市部に行くと時間帯によっては1時間の内50分以上鳴り続けの警報器もあるとか。これは大変です。解決策は高架にするしかありません。
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  踏切警報機の仕組みです(写真⑥⑦)。大した本数もないのに駅にごく近い駅の踏切が鳴りっぱなしと言うあの腹立たしい現象も理解できると思います。
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  電車線路の構造の解説です(写真⑧)。
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  電気は発電所で作られます。それを変電所に運び架線に流します(写真⑨⑩⑪)。
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  架線の説明です(写真⑫)。
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  こういう解説もありました(写真⑬)。日本の鉄道でいつも話題になる三種類の電気モーターの話です。
  交直流電車は交流でも直流でも運転できるのですが、交直切り替え区間で切り替えないといけません。稀に切り替えに失敗してヒューズを飛ばし身動きが取れなくなる事故がありました。
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  素人にとっては、大体、交流と直流がなぜ存在するのかというのも難しい話ですが、一応電化方式を紹介しておきましょう(写真⑭⑮)。
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  こういう展示もあったので紹介しておきましょう(写真⑯)。
  公共交通機関は人で言えば血管です。架線の電気を止めてしまうと大変なことになります。いたずらをしたり不注意で架線を切らないように注意しましょう。
  場合によっては億円単位の損害賠償を請求されることがあります。
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  架線の部品です(写真⑰⑱)。白い笠のようなものが碍子と呼ばれる絶縁体で、民家用の架線でも普通に見られます。
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  続く
 

第22回大旅行その201(新潟県新潟市49)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市秋葉区にある新津鉄道資料館にいます。場所は磐越道新津ICの西南西約800メートルです。
 
  操重車なるものが登場しました(写真①)。浅学にして初めて聞く言葉です。
  これは文字通り重い車両などを持ちあげるクレーンを装備した鉄道車両で、一般には鉄道事故の際の復旧の際に登場しました。現在は移動式クレーンの発達でこういう専用車両はほとんど無いと言うことです。
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  いくつか紹介しておきましょう。これは昭和40年に信越本線で急行赤倉がミキサー車と衝突脱線したときの復旧作業の様子です(写真②)。
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  これは上に貼られている解説と下の解説が食い違う写真ですが、雪の中、民家に近いところで起こった脱線事故の復旧作業の様子です(写真③)。うっかりすると二次災害も起こるようなところでの作業は大変だったでしょう。
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  これは昭和40年に米坂線で気動車とダンプカーが衝突した事故の復旧作業です(写真④)。相手が重量級のダンプカーだとさすがの気動車も全軸脱輪したようです。このときに活躍したのがソ36でした。
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  これがソ36操重車の勇姿です(写真⑤)。自重68トン、吊り上げ重量65トンという優れものでした。ただし、自走速度は毎分9メートルとなっています。とてものろいです。
  のろいと思ったらこの自走速度は作業中のもので移動中の最高速度は65キロという情報もあります。蒸気機関を積んでいましたが1970年にディーゼルエンジンに換装されています。
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  これはソ30形の後継のソ80形でソ94と呼ばれます。2000年頃までには引退したものと思われます(写真⑥)。
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  さて、展示が変わりました。各種標板です(写真⑦)。
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  こういうものを見てこれはあれだと分かる人は究極の鉄ちゃんだと思います(写真⑧)。
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  蒲原鉄道なる展示になりました(写真⑨)。現在の信越本線加茂駅から磐越西線五泉駅までを結んでいた路線です。
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  なぜここに新規に鉄道を敷設したか、これを読めば分かります。
  陸軍の歩兵連隊が駐屯したり、鉄鉱石の産地、木材・薪炭の産地となったので物資集散の需要があったのです。
  しかし、着工と同時期に鉱山は閉鎖され、工期も遅れて昭和5年に全線開通したのです(写真⑩)。
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  この装備品は蒲原鉄道とは直線関係の無い鉄道の装備品と思われます(写真⑪)。
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  この写真は車両の特徴から見て蒲原鉄道の写真と思われます。昭和38年の豪雪のときのものです(写真⑫)。
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  雪が降ったときに活躍するのが雪かき車です(写真⑬⑭)。2018年1月11日に信越線で列車が立ち往生した事故がありましたが、JRのわずかな判断ミスが重なって重大な事態になったようです。
  それにしても、すぐに自衛隊に救援を求めていればあんなに長く閉じ込めることもなかったでしょうに、JR東日本も新潟県も対応能力が低いですね。
  民進党出身の知事なんか選ぶからだとは言いませんが、橋下氏がこの知事を「頭の悪い知事」と言ったのは本当だったと思います。医師免許と弁護士免許を持っていてもこのざまですから情けないです。
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  それでも雪かき車は黙々と働いていました。次回で紹介しましょう。
 
  続く
 
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