2013年8月12日(月)
今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
この博物館は戦前は大地主だった伊藤家住宅でした。戦後まもなくGHQの士官の助けもあって丸ごと博物館になって現在に伝わった貴重な博物館です。
伊藤家のお宝の展示の続きです。「八角二十四孝文 唐銅瓶掛け」。形が八角形、周囲に二十四孝の場面が描かれています(写真①)。
これは手あぶりと呼ばれる小さ目の火鉢です(写真②)。 銅製ですからかなり重いです。
左2個は「宣徳手焙り 鶴亀松竹梅」です。宣徳は中国・明代の元号(1426~1534年)で、この時代に作られた銅器には「大明宣徳年製」という銘があるそうです。
この二つがそうなのかどうかは分かりませんが、大広間の座敷で冬に宴会をするとき各自の膳の脇に置かれたそうです。
右は「金銀象嵌入り茶洗形小鉄瓶」です(写真③④)。
さて、これは北方文化博物館創立者の七代目伊藤文吉です。解説にもあるように戦後の農地改革で多くの大地主の土地が自作農創設特別法により小作人に強制的に売られました。
これは農地改革と呼ばれるもので、多くの台地主が没落しました。七代目伊藤はこれに直面して家屋敷全体を博物館にする決心をしたのです。
GHQにも理解者がいてそれは実現し、現在、私たちもかつての豪農の館を見ることができます(写真⑤⑥)。
平成のバブル経済中、土地を売って長者になる人がたくさんでました。そのときの農地法の農地転用許可申請に付いていた登記簿を見ると半分以上は「自創法により・・・」という記述があったと思います。かつての小作達が今度はバブルで大金持ちになったというわけです。
これは庭師の田中泰阿弥です(写真⑥の2、⑥の3)。ここの庭園や新発田市にある清水園の復元に努め、現在見られるような形にした人物です。
これはGHQ側の理解者のライト中尉です(写真⑥の4、⑥の5)。詳しいことはインターネットで分かります。
さて、お宝の展示に戻りましょう。 これは「柴船文 招待火鉢」です(写真⑦)。柴舟は文字通り柴を積んで川を航行する舟のことですが、古歌や能にもよく詠まれたと思います。
「紅鉢形宝草華文 手焙り」です(写真⑧)。
「宣徳小炉 桐鳳凰模様」です(写真⑨)。
「千鳥に網代文 大目筋臼 桐臼形火鉢」です(写真⑩)。
最後に先ほど紹介したラルフ・ライトと伊藤文吉の記念碑を紹介しておきましょう。昭和63年に建立されており、これはその建立式典です。昭和63年10月23日に行われました(写真⑪)。
七代目の伊藤文吉は既に死亡して八代目になっていましたがラルフ・ライトは健在でした(写真⑫)。
戦後間もない頃に敵国だった日本の美を認めて守ってくれた恩人を顕彰すべきだと思います。未だに難癖の種を探し続ける悪意に満ちた隣国とは大違いですから。
では次に行きましょう。
続く