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Channel: 続・よねちゃんの車中泊旅行記
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第22回大旅行その162(新潟県新潟市11)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  この博物館は戦前は大地主だった伊藤家住宅でした。戦後まもなくGHQの士官の助けもあって丸ごと博物館になって現在に伝わった貴重な博物館です。
 
  伊藤家のお宝の展示の続きです。「八角二十四孝文 唐銅瓶掛け」。形が八角形、周囲に二十四孝の場面が描かれています(写真①)。 
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  これは手あぶりと呼ばれる小さ目の火鉢です(写真②)。 銅製ですからかなり重いです。
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  左2個は「宣徳手焙り 鶴亀松竹梅」です。宣徳は中国・明代の元号(1426~1534年)で、この時代に作られた銅器には「大明宣徳年製」という銘があるそうです。
  この二つがそうなのかどうかは分かりませんが、大広間の座敷で冬に宴会をするとき各自の膳の脇に置かれたそうです。
  右は「金銀象嵌入り茶洗形小鉄瓶」です(写真③④)。
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  さて、これは北方文化博物館創立者の七代目伊藤文吉です。解説にもあるように戦後の農地改革で多くの大地主の土地が自作農創設特別法により小作人に強制的に売られました。
  これは農地改革と呼ばれるもので、多くの台地主が没落しました。七代目伊藤はこれに直面して家屋敷全体を博物館にする決心をしたのです。
  GHQにも理解者がいてそれは実現し、現在、私たちもかつての豪農の館を見ることができます(写真⑤⑥)。
  平成のバブル経済中、土地を売って長者になる人がたくさんでました。そのときの農地法の農地転用許可申請に付いていた登記簿を見ると半分以上は「自創法により・・・」という記述があったと思います。かつての小作達が今度はバブルで大金持ちになったというわけです。
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  これは庭師の田中泰阿弥です(写真⑥の2、⑥の3)。ここの庭園や新発田市にある清水園の復元に努め、現在見られるような形にした人物です。
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  これはGHQ側の理解者のライト中尉です(写真⑥の4、⑥の5)。詳しいことはインターネットで分かります。
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  さて、お宝の展示に戻りましょう。 これは「柴船文 招待火鉢」です(写真⑦)。柴舟は文字通り柴を積んで川を航行する舟のことですが、古歌や能にもよく詠まれたと思います。
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  「紅鉢形宝草華文 手焙り」です(写真⑧)。
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  「宣徳小炉 桐鳳凰模様」です(写真⑨)。
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  「千鳥に網代文 大目筋臼 桐臼形火鉢」です(写真⑩)。
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  最後に先ほど紹介したラルフ・ライトと伊藤文吉の記念碑を紹介しておきましょう。昭和63年に建立されており、これはその建立式典です。昭和63年10月23日に行われました(写真⑪)。 
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  七代目の伊藤文吉は既に死亡して八代目になっていましたがラルフ・ライトは健在でした(写真⑫)。
  戦後間もない頃に敵国だった日本の美を認めて守ってくれた恩人を顕彰すべきだと思います。未だに難癖の種を探し続ける悪意に満ちた隣国とは大違いですから。
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  では次に行きましょう。
  続く
 

第22回大旅行その163(新潟県新潟市12)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  矢立がありました。まずは解説です(写真①)。
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  これが矢立です(写真②)。
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  よく見ると精巧な装飾が施されています(写真③)。
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  これも矢立です(写真④)。
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  これもすばらしい意匠です。多くは根付けが付いていてこれも精巧な装飾があります(写真⑤)。
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  丸木舟がありました(写真⑥)。まずは解説です。 1千年以上前のものだそうです。和船というと古墳時代には既に現在もある板を接ぎ合わせた構造のものが主流だったのですが、丸木舟も併行して作られていたようです。
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  これがその1千年前の丸木舟です(写真⑦⑧)。
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  火炎式土器がありました(写真⑨⑩)。 現在では単に深鉢土器という事も多いようです。
  常用する容器は「シンプルイズベスト」などと言われ、装飾も突起物も可能な限りない方が壊れにくく使いやすいです。それからすると、これは最低ということなのですが、美しいという点では図抜けています。
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  さて、この後も地元の遺跡の出土品と思われる展示が続きますが、当ブログの守備範囲ではありませんので省略します(写真⑪)。
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  翡翠の原石がありました(写真⑫⑬)。さて、どこに翡翠があるのか素人が見ただけでは分かりません。
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  蜂の巣もありました(写真⑭)。当博物館にできたものだそうです。
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  この辺りの屋根の小屋組です(写真⑮⑯)。
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  ビリヤード台がありました。7台目伊藤文吉が戦前アメリカ留学の際に持ち帰ったというものです(写真⑰)。持って帰るだけでも莫大なお金がかかったでしょう。
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  では次に行きましょう。
 
  続く
 

第22回大旅行その164(新潟県新潟市13)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  豪農の館資料室というところにやってきました(写真①)。
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  この博物館は元々は伊藤家という豪農の家屋敷だったのですが、戦後まもなくの農地改革で没落しかねないという状況の際に進駐軍将校にも助けられて家屋敷ごと博物館になりました。その旧伊藤家に伝わった資料を展示しています。
  これは棟札です(写真②)。左は明治20年の主屋のもの、右は明治34年の土蔵のものです。こういう棟札は今でも上棟式で使われていますが、文化財の場合は建立した年代が特定できるので新たに見つかれば大発見にになります。
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  王政復古の大号令が発布されたのは慶応3年12月9日(1868年1月3日)ですが、  これは翌年の慶応4年3月に発布された太政官告示です。この頃はまだ戊辰戦争の最中でした。
  ちなみに、慶応4年9月8日に明治元年と改元しましたが、これを遡って慶応4年1月1日に遡って適用したため、慶応4年の文書は、書いたときは慶応、後世の歴史では明治となり分かりにくくなっています。
  更に日本が西洋暦を使うようになったのは明治5年12月2日(1872年12月31日)ですから、明治のこの頃の日付はややこしくなりました。もちろん、だから元号など不要とことにはなりませんが(写真③④)。
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  これは写真③④の元となった元の告示です(写真⑤)。
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  これも慶応4年3月に発布された太政官告示です(写真⑥⑦)。内容は徒党を組んで強訴したり、申し合わせて居所から逃散したりするのは御法度で、こういうのを察知したら役所に申し出よということです。
  役所の告示は世間の出来事を反映するので、明治の初めこういうことが社会事象として起こったのでしょう。
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  これも慶応4年3月に発布された太政官告示です(写真⑧⑨)。五倫とはかの孟子が主張した5つの徳目として知られます。鰥寡孤独(かんかこどく)は今でも社会問題になっている話で、「妻を失った男、夫を失った女、親のない子、老いて子のない人で寄る辺ない身の上の人全般を指します。
  殺人、火付け、盗賊は今でも極悪です。字面は古色蒼然としていますが現代に通じるものばかりがならんでいて、役所の文書としては簡にして要を得た「傑作」です。
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  旧伊藤家の金庫です(写真⑩)。
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  「兎杖軒」と書かれた威厳のある扁額がありました(写真⑪)。
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  この解説を読むと兎杖軒とは大榮寺の隠居所の名であることが分かります。大榮寺は今でも当博物館の西隣にありますが、昔は当博物館の敷地も大榮寺のものだったのです(写真⑫)。
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  その兎杖軒にはかつて京都の桂離宮にあった水蛍という灯籠とそっくりの灯籠があり、それは現存するようです。残念ながら文中の「佐度観亭」がどこにあるのかは不明です(写真⑬)。
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  続く
 

第22回大旅行その165(新潟県新潟市14)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  今いるのは豪農の館資料室です。こういう展示になりました(写真①)。この博物館は戦前は旧伊藤家の豪邸でした。写真は歴代当主を写したものです。それ以外の展示品を詳しく紹介しましょう。
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  「倹以養徳」と書かれた扁額です(写真②)。
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  この解説を読むと、由緒ある扁額だと分かります。あの米沢藩主の上杉鷹山の師だった紀徳民の手によるものでした(写真③)。倹約で徳を養うとはいい言葉です。ただし、お金を使うときを間違うとただのケチになります。
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  これは何でしょう。上海で作られたもののようですが、トランクでしょうか、行李の一種でしょうか(写真④)。
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  箪笥です(写真⑤)。
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  写真5の左の木箱は箪笥のように見えませんが。この位置からすると箪笥でしょう(写真⑥)。
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  帳場机といったらいいでしょうか。伊藤家の5代目が愛用したものです(写真⑦)。
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  机の上には小物がたくさんあります。この小さな机のようなものは何でしょう(写真⑧)。
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  これも分かりません。硯で使う水を入れる容器でしょうか(写真⑨)。
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  文鎮だと思われます(写真⑩)。
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  蔵の鍵です(写真⑪)。今の感覚でいくとどこの蔵の錠前もこの鍵で開きそうな気がするのですが。
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  5玉が2個ある古い算盤、下は何でしょう(写真⑫)。
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  これは硯と硯箱です(写真⑬)。小学校の授業で一番嫌いなのは書道でした。そのときの先生は書道というものは心静かに墨をするところから始まると言って、墨汁を使うのを認めませんでした。
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  印箱です(写真⑭)。往時使われていた印の素材は竹、鉄、象牙、石だったようです。
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  書類用の箪笥です(写真⑮)。こうやって見ると知らないものも結構ありました。
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  この先、伊藤家の商売関係の書類もありますが省略します。
 
  資料室から外を見たところです(写真⑯⑰)。向こうにある建物は多分。大広間だと思われます。この後見学に行きます。
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  これで豪農の館資料室は終わりです。再び主屋一階に戻ります
 
  続く
 

第22回大旅行その166(新潟県新潟市15)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  今いるのは豪農の館資料室です。ここの見学が終わり再び主屋に戻ってきました。これは既に紹介した囲炉裏のある部屋です。居間と言ったらいいでしょうか(写真①)。
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  これは台所です(写真②)。これも既に紹介しました。
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  さて、少し移動するとこういうところに来ました。詳しく紹介しましょう(写真③)。
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  この先は企画展だったかもしれません(写真④)。
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  まずはこれです(写真⑤)。「月に狸」という作品です。
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  「月に狸」の上半分です(写真⑥)。花札もそうですがやはり月とくれば雁です。
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  下半分は狸です(写真⑦)。咲いている花は何でしょう。「シカト」の語源となったとされる花札の10月、モミジの10点札の鹿を後方から見たらこんな感じだったかもしれません。
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  昨今は京都のど真ん中を猪が猛進する世の中です。和歌山でも裏山に行けば猪、猿、狸は当たり前のようにいます。困るのは野犬と野良猫が増えたことです。間違っても野生の動物を餌付けしないようにしましょう。犯罪に等しい行為です。
 
  次は「見上げる犬」です。これは上半分です(写真⑧)。安宅安五郎が描いたものです。花は
芙蓉です。飛んでいる蝶の同定は困難です。
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  見上げる犬の下半分です(写真⑨)。犬は何をしているのでしょう。単に飛ぶ蝶や蛾を見ているということでしょうか。
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  これは橋本雅邦という有名な画家の作品「月夜の玉兎」です(写真⑩)。
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  「月夜の玉兎」の下の方の部分図です(写真⑪)。兎は2匹います。橋本先生、後ろ向きの1匹を完成するのを忘れたのでしょうか。いやいや大先生ですからそんなはずはありません。ぼかしたのでしょう。
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  これは「牛に牡丹」という作品です(写真⑫)。金屏風は反射光があってとても写真に撮りにくいものです。
  ましてやガラス張りなのでガラスの表面でストロボ光を反射し、金屏風でも反射しで見栄えよく撮るのは至難の技です。絵は右側に偏っていて、牡丹を頭に乗せた牛が描かれています。
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  「牛に牡丹」の解説です。解説自体も思わせぶりです(写真⑬)。牡丹となると唐獅子牡丹が有名ですが、何か意図するところがあるのでしょうか。浅学にして結局牛が何を見ていたのかは不明です。
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  これも傑作です。「桜にとまった鳩」という作品で描いたのが江戸琳派の始祖である酒井抱一です(写真⑭)。
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  確かに桜の枝に鳩が止まっています。今で言えば何という名の鳩でしょうか(写真⑮)。
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  下の方では魚泳いでいます(写真⑯)。背中にアブラビレがないのでコイ科の魚と分かりますが、その先は同定困難です。
  ストロボがショーケースのガラスで反射しました。これを防ぐには斜めから撮らないといけませんが、そうすると画面が上下左右どちらかに歪みます。現代のデジカメではISO感度を上げてストロボなしで撮影するのが一番いいかもしれません。
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     続く 
 

第22回大旅行その167(新潟県新潟市16)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  日本画の中の動物展という企画展を見学中です。
  これは「お祝いの鯛」という作品です。目がかわいらしいという感じです(写真①)。作者は土田麦僊、新潟県佐渡の出身の日本画家で1938年に没しています。
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  これも土田麦僊の作で「二羽の雀」という作品です(写真②③)。二羽の子雀がいかにもかわいいという感じです。
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  これは「ありとまくわ瓜と茄子」という作品です。作者は柴田是真、1891年に没しています(写真④⑤)。蟻はよく見ないとどこにいるか分かりません。
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  さて、最後に日本画の中の動物展の解説を紹介しておきましょう(写真⑥)。
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  次は動物の香炉、香合です。香炉は文字通りお香を焚く道具、香合はお香を入れておく道具です。香炉というと多くは凝った造りのものが多く、ここに展示されているものは珍しいものと思われます。
  いくつか紹介しましょう。これは鳩です(写真⑦)。
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  鶏もいました(写真⑧)。
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  獅子だそうですがよく見ないとどこが獅子なのか分かりません(写真⑨)。
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  鯛です(写真⑩)。
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  象もいました(写真⑪)。
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  さて、軸盆です。軸盆という言葉も滅多に聞かなくなりました。掛け軸や巻物を載せる盆のことです。まあ、普通に見かけるのは床に飾られた掛け軸なので当たり前と言えば当たり前ですが。この軸盆は先ほども登場した柴田是真の作で蝶をあしらっています(写真⑫)。
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  三猿です(写真⑬⑭)。解説を読むとかなり古いもののようです。三猿はかなり誤解されているか誤用されているようです。
  本来は論語に由来するまじめな言葉で「礼節を欠くようなことは言うな、見るな、聞くな、するな」ということなのです。ご都合主義でも事なかれ主義でもありません。
  現在では「自分に都合の悪いことは見ない、言わない、聞かない」とか、「見ていないことにします、余計なことは言いません、聞いていないことにします」とかいうような感じで使われることも多いでしょう。
  こういう態度で偏向した報道をする新聞が朝日新聞など何社もあります。新聞を読むときはよくよくご注意の程を。
  礼節を欠くようなことは・・・というのは大相撲の横綱にも教えてやりたいですね。え、政治家にも大勢いるって・・・。
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  突き当たりに馬の絵を描いた衝立がありました(写真⑮)。
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  では次に行きましょう。
 
  続く
 

第22回大旅行その168(新潟県新潟市17)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  これは主屋と大広間の間にある中庭です(写真①②)。かなり大きめの石を敷き詰めた珍しい造りです。
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  これは大広間と主屋を結ぶ回廊から見た主屋です(写真③)。
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  さて、  この部屋は休憩室です(写真④)。大広間という建物に入ったものと思われます。
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  休憩室の中です。一応床の間になっています(写真⑤)。
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  床にあった掛け軸の書です(写真⑥)。最初の「袖」という字は読めましたが後はほとんど読めません。
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  幸いなことに解説がありました(写真⑦)。しかし、今度は解説でも意味が分かりません。
手鞠のつきかたに一二三四五六七というのがあるのでしょうか。
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  これは何とあの桂小五郎(木戸孝允)の書いたものでした。「山花水鳥皆知己」、いい言葉です(写真⑧⑨)。
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  こういう写真がありました。2008年に当博物館の藤棚で撮影されたものです。舛添要一が写っていますが、この当時は厚生労働大臣でした。左には泉田裕彦がいます。どちらも結局大した人物ではありませんでしたね(写真⑩)。
  まあ、泉田の後任の米山知事も時々意味不明の発言をしてテレビに出るという感じですが。
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  こういう衝立もありましたが、解説がなかったので詳細は不明です(写真⑪)。
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  さて、大広間の前の長い廊下です(写真⑫)。
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  大広から見た中庭です(写真⑬)。向こうが主屋です。
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  さて、これが大広間です(写真⑭~⑯)。詳しいことは次回で紹介しましょう。
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  続く
 

第22回大旅行その169(新潟県新潟市17)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  大広間にいます。ここは大広間の一番端、下座に当たるところです(写真①)。
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  お宝がたくさん展示されています。詳しく紹介しましょう。まずはこれです(写真②)。
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  これは青銅製の大香炉です(写真③)。
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  明治から大正にかけてここで実際に使われた青磁の香炉です(写真④)。
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  伊万里焼の色絵面取大香炉です(写真⑤)。いやいや、感嘆するばかりの美しさです。この種の色合いや意匠は好き嫌いがあると思われます。
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  すぐ近くに大玄関がありました(写真⑥)。
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  大玄関の長押の上にこういう扁額がありました。「静松軒」と書かれています。この大広間が建てられたのは1889年(明治22年)ですが、この扁額には明治24年小春と書かれています(写真⑦)。
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  大玄関を内側から見たところです(写真⑧)。
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  透かし釣灯籠がありました(写真⑨)。伝統的な装飾です。
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  そうかと思えばこういう像もありました。明治も22年、和洋折衷が生き生きとしているという感じです(写真⑩)。
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  さて、大玄関から入ると大広間はこういうように見えます(写真⑪)。
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  望遠レンズを使うとこういうように見えます(写真⑫)。
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  天井は普通の竿縁天井です。折り上げ天井だったらもっと見栄えがしたでしょう(写真⑬)。天井板には銘木が使われていると思われますが、素人では見分けができません。
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  さて、展示品を紹介しましょう。大盃と大徳利です(写真⑭~⑯)。大盃は恐らく飲み回しをしたものと思われます。この時代、飲めない人は大変だったでしょうね。どちらも伊万里焼の染め付けで江戸末期の作です。
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  続く
 

第22回大旅行その170(新潟県新潟市18)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  大広間にいます。1889年(明治22年)に建てられたものです。
  大広間の展示品の続きです。こういう扁額がありました(写真①)。辛亥六月とかろうじて読めましたので1911年(明治44年)作ではないかと思われます。辛亥は干支の一つです。
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  この年に中国で起きたのが辛亥革命と言ったらご存じの人も多いでしょう。この革命で清王朝が滅亡して中華民国が成立しました。残念なことに中華民国はその後共産主義者に敗れ台湾に逃れて現在に至っています。
 
  こういう展示がありました。雰囲気からして尋常なお宝ではないと思われます(写真②)。
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  中に入っていたお宝を紹介しましょう。これは黒山水蒔絵の料紙硯箱です。要は料紙箱と硯箱があると言うことです。これは料紙箱です(写真③)。
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  これは硯箱です(写真④⑤)。
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  これは「青貝平卓」という名が付いてます(写真⑥⑦)。写真⑦は部分図ですがどういう場面でしょうか。青貝とはヤコウガイやアワビなどの貝を用いた螺鈿細工のことです。
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  鴨居の上の造りです(写真⑧)。障子は採光と美しい組子を見せるためのものです。
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  欄間です(写真⑨⑩)。
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  欄間のある位置です(写真⑪)。よく見ると、写真⑨⑩は下座から見ていました。つまり裏側から見たところを紹介したことになります。
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  この広間は3つの大きな部屋と三つの小さな部屋があり、それぞれ敷居と鴨居があります。ふすまなどを入れれば6つの部屋になり、全部取り去るとこの巨大な広間になります。これは真ん中の大きな部屋から床を見たところです(写真⑫)。
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  反対側の下手を見たところです。向こうに見えるのが先ほど紹介した大玄関です(写真⑬)。
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  大広間の前には庭園が広がっています。下手の方から紹介しましょう(写真⑭~⑯)。
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  続く

第22回大旅行その171(新潟県新潟市19)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  大広間を見学中です。大広間の前にはこういう庭園が広がっています(写真①)。
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  先ほどから見えていた所の扁額です(写真②)。詳細は不明です。
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  「楠公子別図」という題のようですが、世に言う「桜井の訣別」の場面を描いた扁額です。まずは解説です(写真③)。
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  これがその扁額です(写真④)。戦前はこの話が歴史や修身の教科書に載っていたので知らない人はいませんでしたが、そういう時代も遙か昔のことになりました。
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  余りのも有名なので賛と絵を拡大しておきましょう。まずは賛です(写真⑤)。一応漢文ですが、日本人の書いた漢文なので字面だけ追っても多少は理解できます。
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  これは楠木正成が子の正行(まさつら)を口説いている場面です(写真⑥)。正成はこれから湊川の戦いに行くところですが、死を覚悟しての出陣です。
  正行は同行したいと言いますが、「故郷に帰って捲土重来、必ず朝敵を倒せ」と言い聞かせます。正行はこのとき数え年11歳でした。
  この様子は唱歌にもなっています。1番だけ紹介しておきましょう。2番から4番を読むとこの絵がどういうことなのかよく分かります。
 
  桜井の訣別
  青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
  木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
 
  この話は1336年のことですが、正行は1348年の四條畷の戦いで戦死しています。享年23歳でした。享年については諸説あるようです。
  
 
  今の感覚だと、時代錯誤的な後醍醐天皇にそんなに忠義を尽くさなくてもよかったのにと思うかもしれません。歴史の話はその当時の基準で考えないと理解できないのは当たり前のことですが。
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  さて、大広間の正面の床です(写真⑦)。
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  床を順に紹介しましょう。まずは付け書院です(写真⑧)。向こうに見える庭も橋があって一番見栄えのするところです。
  幅広の長押があるのが分かります。書院の明障子の桟の木組みも見事です。
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  床にあった書です(写真⑨⑩⑪)。解説があるので何とか分かりました。 
  李紳は日本では余り有名ではありませんが、中国唐代の詩人です。科挙に合格した高級官僚でした。「粒粒皆辛苦」という言葉は今も使われることがありますが、この詩に由来します。
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  こういう解説もありました(写真⑫)。終わりの方の「疲弊した農村を救ったのは大地主の土地改良の力による」というあたりは色々な意見があるかもしれません。
  毎年の年始会にこの詩を必ず掛けたと言うところは素直に立派だと評価したいところです。
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  床柱、狆くぐり、床脇と続きます(写真⑬)。
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  床脇です(写真⑭)。
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  違い棚です(写真⑮)。右上にあるのは筆返しですが、銘木をさり気なく使うというのがよくあったようです。
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  床の天板や正面下の床框にもよく銘木が使われます。残念ながら素人の目にはよく分かりません(写真⑯)。
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  続く
 

第22回大旅行その172(新潟県新潟市20)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  大広間にいます。これは大広間上段の床です。この大広間は、左端に鴨居が見えているように、ふすまで仕切り、大小6つの部屋にすることができます。今いるのは狭い方の間の床です(写真①)。
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  篆書の詩がありました(写真②)。これだけだとほとんど読めませんが、幸いなことに解説がありました。
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  これがその解説です(写真③)。作者は良寛、書いたのは吉崎努という人です。
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  天袋のふすま絵です(写真④⑤)。まるで生きているような鯉です。
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  地袋と天板です(写真⑥)。天板の木目が見事だと思います。
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  地袋のふすま絵を紹介しましょう(写真⑦⑧)。
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  さて、床の方から下手を見たところです(写真⑨⑩)。
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  大広間の扁額も紹介しておきましょう(写真⑪)。撮り忘れた扁額もあったようです。
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  こういう角度から見た庭も見事です(写真⑫)。
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  大広間の縁側から見た庭です。こういう水はどうやって流しているのでしょう。(写真⑬)。禅寺などの庭よりも素直に見ることができるかもしれません。
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  回遊式の庭園ですが、実際に歩けたかどうかは覚えていません(写真⑭)。
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  こういう石橋は回遊式庭園には必ずと言っていいほどありますが、独特の雰囲気を醸し出します(写真⑮)。
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  庭園の一番奥の方と思われます。滝がありました(写真⑯)。
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  庭はここで終わっています(写真⑰)。
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  続く
 

第22回大旅行その173(新潟県新潟市21)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  大広間の見学中です。現在位置を見失いましたが大広間の建物の奥まったところにある部屋だと思われます(写真①)。
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  この部屋は変わった構造をしています(写真②)。部屋の二辺に床が設けられています。まあ、他でもこういう座敷を見たことはあります。
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  これは一方の床です(写真③)。
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  もう一方の床です(写真④)。簡素な造りで茶室風と言ったらいいでしょうか。
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  隣はこういう部屋でした。やはり大広間の建物にいたようです。この中央に座っている男が邪魔なのですが、なかなかどきません(写真⑤)。
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  この部屋の欄間の絵です(写真⑥⑦)。
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  こういう扁額もありました(写真⑧)。
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  さて、これで主屋と大広間の見学は終わりです。
 
  外に出ました。これは往時の主屋の玄関です。右は今使われている入口で往時は通用口だったでしょう(写真⑨)。
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  これが玄関です(写真⑩)。
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  玄関の照明です。往時のままと思われます(写真⑪)。
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  正面長押の上にあった飾りです(写真⑫)。
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  こういう碑がありました(写真⑬)。先にも紹介した話ですが、旧伊藤家が戦後の農地改革で没落しかけたときに進駐軍のライト中尉がここを訪れて文化的価値を理解し、伊藤家の7代目と意気投合して現在の北方文化博物館になったと言う話が刻まれています。
  意気投合した一因は7代目が米国のペンシルバニア大学に留学したことがあり、ライト中尉も同じ大学の卒業生だったからです。
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  碑文を紹介しておきましょう(写真⑭)。
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  主屋の屋根にあった瓦です(写真⑮)。
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  では屋敷内を移動しましょう。
 
  続く
 

第22回大旅行その174(新潟県新潟市22)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  主屋と大広間の見学が終わり、邸内を移動しています。
  こういうところにやってきましたがここから中には入れないようです(写真①)。
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  こういう石がありましたが何でしょうか(写真②)。
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  なかなか立派なたたずまいです(写真③)。
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  やがてこういう小径に入りました(写真④)。
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  その先にはこういう蔵のような建物があります(写真⑤)。
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  庭園の松が見事です(写真⑥)。左の方に門がありますが、公開はされていないようです。
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  おや、先ほど内側から見た大広間の玄関です(写真⑦)。
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  ここから中に入ることはできませんが見ることはできます(写真⑧)。
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  式台を上がると正面に大きな床の間があることが分かります(写真⑨)。
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  これは何の木でしょう。赤松の若木でしょうか(写真⑩)。
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  ここはどの辺りでしょうか(写真⑪)。もしかしたら行き止まりになっていて最初に主屋に入った個人客入口に戻ってきたかもしれません。
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  三楽亭、集古館という表示がありました。左端の門をくぐると行けそうです(写真⑫)。
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  それがこの門です(写真⑬)。
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  中に入りました。左は主屋の団体入口です(写真⑭)直進すると三楽亭という茶室と集古館という資料館があります。
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  これは入ったところにある藤棚です(写真⑮⑯)。
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  続く
 

第22回大旅行その175(新潟県新潟市23)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  藤棚の近くに田んぼがありました(写真①)。見取り図によると蓮池があるはずなのですが。
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  正面に新潟県内から移築した古民家がありました(写真②)。大八車とその車輪がならんでいます。
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  二件ある内の一つです(写真③)。柏崎市から移築したもので400年前の竣工だそうです。
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  中に入ると土間があります。右側は馬屋です(写真④)。
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  馬屋の反対側には蓑を吊っています(写真⑤)。
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  土間の上の屋根の小屋組です(写真⑥)。もちろん、屋根は茅葺きです。
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  更に奥に行きました(写真⑦)。こういう農具は納屋に入れていたと思います。主屋の土間は夜なべ仕事や雨天のときの作業場でした。
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  折角の展示物なので紹介しておきましょう。左は足踏み式脱穀機、中央は唐箕です(写真⑧)。
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  ここにも唐箕がありました。ハンドル部に金具が付いているので写真⑧に比べると改良型です(写真⑨)。
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  背当てと言ったらいいでしょうか(写真写真⑩)。背負子を直接背中に背負うと痛いのでこの緩衝材をいれます。
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  土間に作られた囲炉裏がありました(写真⑪)。
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  どうもここだけが板の間で、ゴザのようなものが敷かれています(写真⑫)。
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  解説によるとこういう事情があったようです(写真⑬)。縄文時代の家も中で柴や草を敷いて土間に寝ていました。それほど変わらない生活水準という感じです。ただし、板張りの家は下を冷たい空気が通るためかなり寒いと言うこともあります。それなら地べたにワラなどを敷き詰めて寝た方が却って暖かかったかもしれません。こういうところで炉裏の周囲に藁などを敷いて寝たということです。明日はどうなるか、現代人だと色々考えて寝られないかもしれませんが、往時の人はどうだったでしょう。
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  ところでこの木組みが何なのか分かりませんでした(写真⑭)。
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  外に出ました。ここにも大八車と輪が展示されています(写真⑮)。
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  隣にももう一棟往時の農家の家があるようです(写真⑯)。次回で紹介しましょう。
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  続く
 

第22回大旅行その176(新潟県新潟市24)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  主屋の見学は終わり、敷地内を歩いているとこういう古民家がありました(写真①)。
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  当博物館の前身の旧伊藤家のものではなく、新潟県内にあった農家を移築したものです(写真②)。
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  前回紹介したもう一棟の古民家に比べるとかなり上等な造りです。前回紹介した民家が400年前のもの、今紹介しているのは150年前のものです(写真③)。
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  入口に縄のれんのようなものが吊られていました(写真④)。板戸よりも採光性に優れています。横に引かないといけない明かり障子よりも面倒でないというようなことだと思います。昼間はこの方が便利だったでしょう。
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  中に入りました。左手に馬屋があります(写真⑤)。
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  これが馬屋です(写真⑥)。一段低くなっています。手前にあるのは飼い葉桶です。
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  馬屋の床がかなり低いのは藁などを敷き詰める厚さを取っているのでしょう。馬の糞尿である程度汚れると、藁を掻き出して掃除しないといけません。と思ってていたら、こういう解説がありました(写真⑦)。冬期は藁出しができないため、、掘り下げて容量を大きくしているのだそうです。
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  この辺り、天井は低いのですが梁は頑丈です(写真⑧)。正面の鋸は左が木挽鋸、右は伐採用の鋸です。
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  これは馬のワラジでしょうか(写真⑨)。
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  人用のワラジと袋です(写真⑩)。
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  さて、奥に入りました。本当の土間です(写真⑪)。
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  土火の片隅にはかまど、奥は今で言う台所です(写真⑫)。今思えば随分貧弱なと思いますが、田舎では昭和30年代まで似たようなものでした。
  都市部では「文化住宅」なるものが大量にできたのは同じ昭和30年代です。便所と台所が付いていてそれまでよりも文化的という意味でした。
  テレビの火事のニュースで出てくる築50~60年の木造モルタル2階建て集合住宅と言われるものの多くはこういう文化住宅だと思われます。残念ながら文化住宅は現在では老朽化した安アパートの代名詞のようになっています。
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  かまどです(写真⑬)。これで煮炊きするのはとても面倒でしたがこれしかない時代ではではそうは思わなかったでしょう。それにしても今売っている電気炊飯器の値段はとても高くてびっくりしますね。いささか過当競争になって凝りすぎの感もあります。数万円の安いものも探せばあるようです。
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  これは何でしょう(写真⑭)。台所用品だと思うのですが。
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  これはユウガオの実を加工して作った容器です(写真⑮)。
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  水屋、水桶です(写真⑯)。
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  掛け流しの水道があったようです。谷川や泉から樋で引き込んだのです。この石で水を溜めたのでしょう(写真⑰)。
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  続く
 

第22回大旅行その177(新潟県新潟市25)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  土間から奥を見たところです。手前は居間、奥に一間だけ畳の間があるようです(写真①)。
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  上に上がりました(写真②)。囲炉裏はごく普通の仕様です。
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  自然光で取った居間です(写真③)。
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  居間の隣の部屋です(写真④)。太い梁が屋根全体を支えています。
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  囲炉裏の上部です(写真⑤)。
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  居間には神棚がありました(写真⑥)。
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  居間の奥の板敷の間です(写真⑦)。現在のフローリングと同じ住み心地です。
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  奥の畳の間です(写真⑧)。
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  押入しかない質素な造りです(写真⑨)。
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  奥の方から見た居間です(写真⑩)。
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  さて、古民家の見学はこれで終わりです。庭園内を散策します(写真⑪)。よくは分かりませんが、右手に見えるのは常磐荘です。
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  これが常磐荘ですが、中の見学はできないようです(写真⑫)。
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  これは地酒館です(写真⑬)。新潟は米所、地酒もおいしいと思います。
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  これは味噌蔵です(写真⑭)。
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  ここから集古館を目指して歩きます。主屋の勇姿と美しい庭木が見えます(写真⑮⑯)。
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  次回で集古館を詳しく紹介しましょう。
 
  続く
 

第22回大旅行その178(新潟県新潟市26)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  米蔵にやってきました。正確には門土蔵ということのようです(写真①)。
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  建物の前にいろいろな甕が展示されています(写真②)。
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  正面です(写真③)。頑丈な造りの土蔵です。
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  解説を紹介しましょう。まずはこれです(写真④)。元は米蔵で2000俵(120トン)保管できました。解説文は平易ですが、木舞、海鼠壁、平瓦など建築用語が巧みに使われています。
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  集古館としての解説です(写真⑤)。要するに旧伊藤家のお宝館です。後から見た解説で分かったことですが。これは昭和30年に特別展をやったときのものだそうです。
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  こういう解説もありました(写真⑥)。文中、文久元年は1861年、旧伊藤家の最全盛時代の頃でした。
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  解説にあった駕籠です(写真⑦)。
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  いささか見にくいですが駕籠の解説です(写真⑧)。
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  これは旧伊藤家が使った大金庫で明治14年製です(写真⑨)。証文や株券を保管していたようです。
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  中に入りました。いろいろとお宝が展示されているようです(写真⑩)。豪農の本当の力量を垣間見ることができます。
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  まずは「乾隆 辰砂窯変竹耳花瓶」です(写真⑪)。ご存じのように乾隆帝は中国・清王朝の最盛期の皇帝で、中国歴代の皇帝の中でも最も傑出した皇帝と言われることもあります。
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  清王朝・康煕帝の頃の色壺絵です(写真⑫)。
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  清の頃の陶磁器の解説がありました(写真⑬)。当然のことながら当時の日本では先進国からの舶来品、非常に高価でした。今では中国製と言えば模造品、粗悪品、食べるものは危険品の代名詞ですが、これは中国がまだ文明国だった頃の話です。
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  清王朝・康煕帝の頃の五彩平鉢です(写真⑭)。
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  赤絵草花紋平鉢です(写真⑮)。
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  呉須赤絵花鳥紋平鉢です(写真⑯)。
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  お宝の展示は続きます。
 
  続く
 

第22回大旅行その179(新潟県新潟市27)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  集古館にいます。旧伊藤家のお宝が展示されています。
 
  これは嘉靖染付花鳥文八角蓋物です(写真①)。嘉靖は明代の元号(1522年 - 1566年)です。
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  これが萬暦赤絵龍文蓋物です(写真②)。萬暦は明代の元号(1573年 - 1620年)です。文化は栄えましたが、政治は混乱し、やがて1644年に明は滅亡しています。
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  これは萬暦染付大華瓶です(写真③)。
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  明代の龍泉窯・青磁大壺です(写真④)。
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  時代が遡り、元代の陶磁器になりました。まずは解説です(写真⑤)。
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  さて、これが元代の磁州窯・龍文大壺です(写真⑥)。
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  更に時代が遡り、宋代の陶磁器です。まずは解説です(写真⑦)。
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  これは宋代の均窯・紅斑釉鉢です(写真⑧)。
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  これも宋代の赤絵草花文皿です(写真⑨)。
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  清代の緑釉壺です(写真⑩)。
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  清代の乾隆・三彩六角台です(写真⑪)。こういう意匠のもの、時々見かけますね。
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  清代の乾隆・瓜皮緑瓶です(写真⑫)。いやいや、瑪瑙でできているような美しさです。
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  陶俑(とうよう)です。まずは解説です(写真⑬)。陶俑とは焼きものの人物像や動物像です。秦の兵馬俑が一番有名です。
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  これは唐代の唐三彩・駿馬です(写真⑭)。
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  日本で舶来の陶磁器と言えば明・清代のものが有名ですが唐代にももちろん名品がありました。製陶技術が著しく発展した時代だったようです(写真⑮)。
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  これは唐代の唐三彩・魌頭(きとう)です。魌とは鬼という意味です(写真⑯⑰)。西洋で言うユニコーンのような角、巨大な豚のような耳、仁王のような顔、なかなか他では見られない形相です。
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  かなり専門的ですが、唐三彩の解説です(写真⑱)。シルクロード経由の西域の影響も見られると言うことで中国が有数の文明国だった時代の名残です。
  今の中国は模造品や粗悪品しか作ることができない国に成り下がりましたが、それは共産主義者の独裁の結果であって中国人自体が退化したわけではありません。
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  お宝の展示は続きます。
 
 
  続く
 
 

第22回大旅行その180(新潟県新潟市28)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
 
  集古館にいます。旧伊藤家のお宝が展示されています。
 
  これは陝西省乾陵博文館にある陶俑です(写真①②)。写真②では全体に丸みを帯びていることが分かります。
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  これは唐代のらくだ俑です(写真③)。らくだは西域そのものです。
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  これも唐代の馬上美人俑です(写真④)。
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  六朝時代の高官正装俑です(写真⑤)。中国の六朝時代は222年 - 589年とされ、三国時代の呉、東晋、それに南朝の宋・斉・梁・陳を総称して六朝と言います。
  南朝というのは南北朝時代の南朝のことです。北朝はというと五胡十六国時代とも重なる時代です。秦以降単一の王朝が中国を支配することが長かったのですが、この時代は再び中国が散り散りにになった時代で、高校の世界史で覚えるのに手こずった人も多いでしょう。
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  唐代の美人俑です(写真⑥)。はるか後世の日本の泥人形の祖先かもしれません。
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  これは古い、漢代の緑釉獣環壺です(写真⑦)。
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  中国の陶磁器の解説です(写真⑧)。焼成技術が飛躍的に発展したのは宋代と明代でした。
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  中国の漢代は日本の弥生時代と同じ時期ですが、日本がまだ野焼きの土器だった頃、もう磁器を作る技術がありました(写真⑨)。
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  その漢代の灰釉両耳壺です(写真⑩)。
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  さて、旧伊藤家のお宝は中国だけではありませんでした。これは古代エジプトの骨董です(写真⑪)。  これらはミイラと共に埋葬された副葬品だと言うことです。
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  この赤い壺は加彩壺で、ミイラの内臓を入れた壺のようです(写真⑫)。現在では動物を保存する有力な方法は乾燥させることだということが分かっています。
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  これはよく見かけるマスクです(写真⑬)。これが元代の模造品か、ピラミッドから出したものかは不明です。
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  エジプトの布絵夫人立像です(写真⑭)。周囲に描かれているのは模様ではなくヒエログリフと呼ばれる古代エジプト文字ですから、専門家なら読めるかもしれません。
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  ミイラ棺の蓋飾りです(写真⑮)。
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  古代エジプトのお宝の展示は続きます。
 
  続く
 

第22回大旅行その181(新潟県新潟市29)

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    2013年8月12日(月)
 
  今、新潟県新潟市江南区沢見の北方文化博物館にいます。場所は磐越道新津ICの北約3キロです。
  
 
  集古館にいます。旧伊藤家のお宝が展示されています。古代エジプトのお宝の続きです。
  ガラス長首壺です(写真①)。
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  これなら現代のものを少し土に埋めておけば捏造できるかもしれません。あの大英博物館にもつかまされた捏造品をわざわざ捏造品として展示しているそうですから。こういう解説もありました(写真①の2)。
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  とは言え、古代エジプトでガラスを作れたのは驚きです。どうもエジプトが征服した地域の技術だったようです(写真②)。
  ちなみにこの資料は吉村作治の事典の引用です。吉村作治の評価はいろいろあるようですが、古代エジプトの魅力を日本に紹介したという点では間違いなく功労者でしょう。
  昭和天皇の末弟の三笠宮崇仁殿下もオリエント学の専門家で今で言う中東の歴史を日本に広められた功労者です。
  残念なことに三笠宮崇仁殿下の子は三男二女でしたが男系の孫4人は女子ばかりでした。半分くらい男子だったら皇室も安泰で、少なくともフェミニスト達が女性天皇をもくろむ余地もなかったのですが。
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  古代エジプトの帝王の印です(写真③)。見た感じでは焼きもののように見えます。中国の皇帝が純金の印を使ったのと対照的です。
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  ガラスの壺です(写真④)。今でもほぼ同じものがありそうです。
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  古代エジプトの陶製の香水瓶です(写真⑤)。当時は毎日風呂に入るわけでもなく、歯を磨くわけでもなく、体臭もあって香水はある意味で必需品だったでしょう。
  現代の女性がバカ高い香水を使っているのはある意味で無意味なことです。毎日風呂に入り、ちゃんと歯を磨き、下着も着替えているわけですから。
  ふと、あの明色化粧品はどうなったかと思ったら今も健在でした。明色化粧品を使って余ったお金を蓄えて老後に備えるのが賢明です。90~100歳まで生きるのは当たり前の時代ですから。
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  ウシャブティとは初めて知りました。まずは解説です(写真⑥)。
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  これがそのウシャブティです(写真⑦)。
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  これも古代エジプトの陶製の首飾りです(写真⑧)。
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  これも古代エジプトの装身具です(写真⑨)。
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  これも一部は装身具ですが、人形は何でしょう(写真⑩)。
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  エジプトガラスの涙壺という名札が付いていました(写真⑪)。涙壺という日本語は初めて聞きました。大昔は文字通り涙を溜める壺だったのですが、現在は一輪挿しのような使い方をされているようです。
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  古代エジプトはこれで終わりです。次は「山水梨地料紙箱・硯箱」です(写真⑫)。
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  写真⑫の料紙箱を拡大して見ました(写真⑬)。梨地とは材料が梨の木だということではなく、漆の上に金銀などの粉をまき、更に漆を塗ってから表面を研いで果物の梨の肌触り感を出す蒔絵の技法です。
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  これも梨地山水蒔絵の香盆です(写真⑭)。
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  これは現在でも見かける機会のある赤堆朱香盆です(写真⑮)。堆朱はその名の通り本来は漆を厚く塗ってからそれを彫って絵柄を作り出すものですが、木地を彫ったり、型どりした浮き彫りで木地を覆うようなものもあるようです。
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  では次に行きましょう。
 
 
 
  
  続く
 
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